中学に入ると男性アイドルの曲なんて聴かなくなったねぇ。
レンタルレコード店が出始め、ヒットチャートのシングル曲じゃなくて、お気に入りのアーティストのアルバムを聴くようになった。オフコースとかオフコースとかオフコースとかを聴いていた。
なんでオフコースだったのかよくわかんないんだけど、友達の兄ちゃんがハマってた影響なんだよな、たぶん。
売れたシングルはもちろん、アルバムに入ってるだけのシングルカットされてない名曲の数々に圧倒されてね。
今でこそ有名になっちゃったけど、「言葉にできない」とか「一億の夜を越えて」なんてよかったよなぁ。古い曲だけど「秋の気配」もいいね。
別に暗い少年だったわけじゃないのよ、ホントに。
そんな中坊はマセガキだから、調子こいて洋楽なんかも聞き始めるんだ。
前にも書いたけど、「小林克也のベストヒットUSA」に出てくるMTV見たさに夜更かししてさ。JOURNYの「SEPARATE WAYS」を何度も何度も繰り返し聴いていた。大きくなったらStieve Perryになりたいと本気で思っていたよ、あの頃は。
YESの「Lonely Heart」も何度も繰り返し聴いたなぁ。あれ?これは高校の頃か?まぁいいや。
あとASIAの「Don't Cry」とかSTIXの「Mr.Robot」とか。
Michael JacksonとかHall&Oatesもよく聴いていたのはこの頃だな。Nenaの「99luft Balons」が流行ったのもこの頃か?Culture Clubとか、懐かしいね。
80年代はボクらの世代に取って洋楽の宝庫だもんな。同じ世代のヤツらがCMのディレクターやってんのか、一時期はCMソングでかかりまくってたもんね。
中学の後半から日本語じゃない(ここがポイント)LOUDNESSを聴くようになってから、より一層ハードな方向性を求めるようになるんだけど、一方で思春期の絶頂期を迎えていたので、ようやく女性アイドルにも興味深々だってことを公言できるようになってね。ムフフ♡
当時はアイドル大豊作時代だったけど、歌の上手さで選んだ中森明菜ばかり聴いていた。可愛かったしね。今でいうツンデレの先駆けなのかな?初期の頃のアルバムはほとんど買って持ってたっけ。お小遣い貯めてLPレコードを買いましたよ。
高校に入ると洋楽もアメリカのハードロックに固定化された。
例えばRATTとかNight Rangerとかを聴きながら、でも、尾崎豊や浜田省吾も聴いたりした。
尾崎には可笑しいくらいハマってたね。尾崎教の信者だったもんね、しばらく。
ちょうど地元に尾崎豊の実家があってさ。尾崎のお母さんが市のカルチャーセンターに通ってるっていうから、そこに通ってる知り合いのお母さんに頼んで、ファンレター渡してもらったりした。期待してなかったのに、サイン色紙がかえってきたんだよ。いまでも持ってる。サインと一緒に「Try your best」って書いてあった。「Do your best」じゃないとこがスゲーって思ったよ。「ただやるんじゃなくて、やらされるんでもなくて、自らやってやろうって思ってやらなきゃ、ダメなんだっ!」って曲解してね。思い込みが激しかったからなぁ、多感なお年頃だから。あははは。
でもね、オンタイムで聴いてた当時、盗んだバイクで走り出さなかったし、夜の校舎窓ガラス壊して回ったりはしなかったよ。行儀よく真面目なんてできやしなかったけど。バーガーショップに駆け込んでポテトをコーラで流し込んだりはよくしてたな。わかるかなぁ〜?わかっちゃうよなぁ〜、たぶん。
尾崎はあまりにも聞き込みすぎて、いまだに初期のアルバム三部作は一曲目から順番間違えずに歌詞見ないで歌えると思うよ。工場のラインで働いてたとき、仕事に慣れてきてあまりにも暇だったから、延々と頭の中でリピートしてたもんね。ちょうど亡くなった年だったな。
会社の寮で朝飯食った後に何気にスポーツ新聞に目をやると、尾崎豊の訃報が大々的に一面に掲載されててね。もちろん自分の目をまずは疑ったんだけど、それも虚しい行為でさ。ちゃんと仕事にも行ったし、その時は呆然自失したけど泣きはしなかったんだよな。
築地本願寺でのファンも参列できる葬儀には行かなかったよ。会社は休みだったんだけど、雨だったし。
その後のゴールデンウィーク中に、当時つきあってた彼女と河川敷に停めた車の中でアルバムを繰り返し繰り返し聴いてた時だったかな、大声で唄いながらなんだか泣けてきちゃってね。彼女の胸に顔を埋めて泣いたっけ。この件で泣いたのはその時だけだったな。
30歳をすぎた頃かな。亡くなった一時期の騒ぎも下火になってきた頃、「あぁ尾崎の歳をとっくに追い越しちゃったんだなぁ」って感慨にふけると同時に、「何で尾崎豊じゃなきゃ駄目だったんだろう?」ってことを考えたことあるんだよね。十代のカリスマ・代弁者だったんだろうけど、冷静に振り返ると晩年はわがままなナルシストだったんじゃない?
十代の頃に作った曲は、十代だったボクらの心にすんごく響いたんだけど、その後、あの熱い頃の歌以上の傑作は生まれてないと思うんだ。早過ぎた天才、夭折ってのがぴったりきちゃうんだよな、ボクの中ではね。お気に召さなかったらゴメンね。
話は高校生の頃に戻るね。
高校の頃、同級生の中にはバンドやり始めるヤツもいて、猫も杓子もBOOWYのコピーバンドをやってた。金曜日の深夜に始まった、渡辺徹と山田邦子の「いきなりフライデーナイト」のオープニングで「Justy」がかかったのがブームの始まりだったような気がする。
当然ながらブームに便乗してBOOWYも聴きまくりましたよ。「B Blue」「Cloudy Heart」「Image Down」とかね。「ハイウェイに乗る前に」なんて友達とハモってたもんな、教室で。布袋のコーラスの真似して遊んだりね。低い声で「Under the Moonlight〜♪」なんてね。これ、「Only you」のBメロの辺りね。
ボクもホントはバンドやりたかったんだけど、金もなかったし、高校の授業終わったら予備校にも真面目に通ってたから、大学受験が終わるまではとバンドやるのは我慢した。我慢してる間にBOOWYは解散しちゃうんだけどね。トホホ。
その頃何やってたかって?最初は運動系の部活だったんだけど、一度怪我して高校二年生の途中で引退してね。それから「帰宅部ドラマ班」と称した、『学校終わったらすぐ帰って4時から日テレの「太陽にほえろ!」の再放送を見るのが主な活動内容の部』に所属してたよ......。
そう、そんな部活なんてない。ただの帰宅部。何もせずダラダラ過ごしてただけなんだ。鬱屈した青春の憤りを内に秘めつつね(ウソ)。
それが大学生になって爆発することになるんだけど、その話は次回で。
(おわり)
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